なにやかにや

 職場復帰して、ひさびさに中長期計画を見直ししてた。
 そうか80まで生きる気だったか、70でいいだろ?とざっくり切ったら余剰金結構出てきた。これ独身でいたほうがおいしくねえか?残念ながら使い切れないような額ではないけど、一人なら楽しく隠居できそうだ。
 とか気がついたあたりで「身の回り3mの幸福を探してごらん?」と高校時代の親友が大変胸糞悪い人を小馬鹿にしきった笑顔で言ってたのを思い出した。やっぱ師匠の言う通りっスね。ああなるほどこれが幸福っスか、モノは考えよう、ね。
 実際のところ、俺は認識軸は事実で捉えるけど、価値判断の軸は歪ませているので現実がアレでも幸福になれるってことなのね。ロクな事ねえし、配牌はいつだって最悪だ。それでもたまにそこそこの手で上がれたり、ムカつく奴の親番飛ばしてやったりさ。そういう面白いことがすこしでもあるなら、オーラスで独り撃沈でもその半荘は楽しかったって言っても良いよな?そうやって騙し騙し。次の半荘では良いことあると良いななんて、だましだまし。それで良いとは思ってないし、欺瞞だって事はわかってる。変わる努力は…してるつもりなんだけどなあ…何か根本から間違ってるんだろうなぁ。


 一歩間違うとアジ太さんプロトコルだけどなあ。俺アイツ嫌いなんだけど思想がどう考えても彼よりな自分に気がついてちょっとへこんだ。でも俺はごまかして生きてる訳じゃない、白いものは白いし、黒いものは黒いよ。欲しいものは欲しいけれど、「手に入らなかった」事を誤摩化すつもりは無い。だから大丈夫?…大丈夫なのかなあ?


 石川版竜馬さんは「人間が一生のうちで自信持って人に伝えたいほどの自分の考えなんて1コか2コぜよ」と言いきったね。でも、少しの材料を与えられれば、先人の知恵を自分で作り出すことが出来るよ。リバースエンジニアリングとも言うが。本筋の意見を言うなら、その材料自体は既に出尽くしつつあり、与えられた材料を組み合わせ、削ぎ落し、作り上げたものはどこかで見たようなものだった、というのは良くある話。出会うタイミングの問題で「へえコイツ俺と同じこと考えてたんだな」と感じた先人が数人いるし俺。それでも全く同じものにはならないのは一種の収斂進化か。それともパロディの元ネタを知らなかっただけなのか。そういう集合知の時系列と系譜には余り興味が無く無頓着な俺だからそういうう事になるのかなあ。
 とまれ、それは無駄な行為なのかと時々悩む。経験的に血肉を持った知恵と伝聞で得た知識では比べ物にならない価値の落差があると知っているけれど、知恵を効率よく伝聞させられる手法が完成したら、人間は新しい領域に行くんじゃないのかなと思うんだけど、これは既にSFの世界でかなり手垢がついてたような予感。この程度の領域での飛躍では届かないのかね。