孤独であることと孤立する事はちょっと違う。

 けっこう混同気味だけど、孤独と孤立は明らかにレイヤーが違う属性。孤独と自立は似ているかも知れない。
 マスターキートンの「喜びの壁」と寄生獣のミギーとG戦場へブンズドアが大好きな俺は「人間は孤独だ」という概念は当然の如く当たり前でそれと孤立する事が別の事象だということを理解しているつもりだったんだけど、まだ認識が淡いのかなあ。ちょっと考えてみる。
 人間は孤独だ、という考えは、本質的な所での相互理解の棄却を意味するのだけど、浅いレベルでの相互理解を否定する訳ではない。認識の近似は認めているのだと思う。
 例えば「夕焼けが綺麗だね」と言った時に、その「綺麗」に対する認識は完全に同一な訳ではない。俺の場合は郷愁やらあちら側への憧憬やらその辺の要素が色々混じった感情になる訳だけど、その混合比率は都度違っていて、たぶん俺同士で夕日を観てもお互いのモチベーションや視点の取り方、タイミングで多少の誤差が発生する。その微妙な差異をもって「完全同一な認識の共有は不可能」と断じるのは乱暴かも知れないけれど、だいたいそんな感じ。
 今まで積み上げて来た経験や環境が違う他人なら尚更だろうし。だから、近似した経験を当てはめる事によって共感してあげる事は出来ても、そいつがいま感じている事は完全に理解してあげられる事はない。そういう意味で、「人間は孤独だ」と俺は認識してる。
 勿論、「孤独から救って欲しい」とは思うし、手の届く範囲ならなんとかしてやりたいとも思うけれど、残念な事にそこから救われた事はなかったし、救われたように錯覚した事があっても、それは一過性のモノだったと今ではちゃんと理解してる。感情なんて天気みたいなものでね、変わらぬ感情なんてのはないんだよ。当然、この辺の認識も人によってそれなりにズレる。「ない」と確信してる人、「理論上はないと思うけどあるはずだ」と信じる人、「この気持ちは変わらないよ!」とロクに検証もせずに言い切る人、いろいろな人が居た。同じような考えでも、突っ込んでいくと全然違ってみたりもしたしね。表層のみの付き合いで「お前は俺か?」と思っても、やっぱ他人は他人だった。理解出来ない。
 その認識のズレが一般的に大きくなりがちな人は集団から孤立、ないしは排斥されるわけで、社会に対する自分の立ち位置の物差しの上に「孤立」と言う概念は成り立っているのだと思う。
 だから、孤独である事を受け入れることで、孤立から回避する事は出来るのだと思う。うまく言えないけれど、孤独だから孤立している訳ではないって事と、完全に理解される事を諦めて、表層の認識だけを共有して理解してもらう事で、仲間を作っていけばその辛さはかなり緩和されるのだろう。親和率の高い仲間が出来ればそれは一番素敵なんだろうけれどね。でもそれは、孤独である事から逃げる為の行動ではなくて、単に自分が生きやすい環境整備なんだ、という事は忘れてはいけないけど。
 それが生き物として生きていく為に必要な作業とも言えるし、もらった仕様書に赤マジックで書かれていた事でもある。たぶん書かれていない人もいるけどね、俺の場合は書いてあったみたい。適度な孤立行動は利益を高める行動でもあるけれど、生命維持の観点では協調性が最低限のマージンを確保する手法だから、その両方をうまく使うのがハード面に負荷をかけない生き方なんだろうなあ。ハードとOSに振り回されて生きているのはここ20年来は変わってない。多分、本質的な問題を解決しないままバージョンアップを繰り返しているせいだと思う。そう言い切っていいくらい、環境が変化しても根っこの環境はあまり変わってない事に最近気が付いた。


 どうでもいいけど孤男板が最近マジで居心地良い。芝生の踏み方を心得てると言うか精神的な親和性が高いと言うか、懐が深いのか。過疎板だから一日1〜2レスの超ロングパスを軸にスレを組み立てていく感じがいい意味で緊張感を与えてくれると言うか。ニュース速報+でやる高速で進むレスの中でのどこか冷めたガチの煽り合いも楽しいけれど、こういうのも悪くない。
 で、やっぱり2chが楽しくてtwitterおざなりになってんスけど。あっちはあっちでなんかうまく使えないもんかね。