捻れろ、その魂。

 踏まんで良い地雷を踏んで、ゲロ吐きそうになるとかバカなの?「これは俺の趣味だ」とか青い顔でドヤ顔されてもみんな困っちゃうんじゃないの?何の話かって俺の人生の話です。
 ポジティブに生きるのは、アクセルべた踏みみたいなもので、燃費が悪い。事故ったら被害が大きい。
 ネガティブに生きるのは、エンジン停止しているようなもので、何もない。でも安全。
 というかそもそもそんなのは人生の一瞬をCTにかけたようなもんで、「現状」でしかなく、全期間を通せば一様にそうであることなんてあり得ない訳で。俺の大好きな作家の方は、「鬱病だって躁鬱の一期間でしかないのかもね?」と仰っていたことでもあり、つまりマクロな視点で見ればポジティブもネガティブも併存し、まとめるとポガティブなのかネジティブなのかという話でしかないのではないかと。


 という訳で俺はネジティビティを遺憾なく発揮し、捻ティブに生きている訳ですよ論法な訳ですよ。はい、ここまで枕ね。
 個人的には「銀輪部隊」が人生のテーマソングみたいになってるので、「やりきれない心を抱え、それでも生きることを諦めないバイシクルの群れ」でありたいなぁと思う訳で。「生きてて良いことなんてなんにもなかったよ?」とか言って、だから死ぬのって理解出来ない訳じゃないけど、「生きてて良かったと思うこと」は俺の人生の目的にはないしなぁ。なんつーかクソゲー掴まされてつまんねーからぶんなげるのと同じだろソレ。「負け犬かよ」って気がしてイヤなんだよね。もっと楽しめよ、って思うんだけどねー。クソゲにはクソゲの流儀があんだろ、それで良いんだよ。っつーか、こんなゴミみたいな人生にはそれくらいが丁度良い。
 物事の本質ってのは揺るがない。でもその評価、受け取り方は千差万別で、その自由度こそが醍醐味と言うか面白さのキモであり、そこが反撃の糸口でもあるというのが俺の私見。いや俺の人生なんてクソだしゴミそのもので「何で生きてんの?」とか言われても当然なんだけどさ、「いやこれが結構楽しいんスよ?」って答えるのが俺の流儀でそれで良いと思うんだよね。「何が楽しいの?」って言われたら「ゴミなところ」って答えちゃうんだけどね。
 「わかる必要ない」っつーより「お願いだからわからないで下さい」って感じ。俺は楽しいけど理解してもらう必要は無いというか、むしろ理解出来ちゃうって事は「お前そんな人生で良いの?」って逆に俺が聞いちゃう。
 「趣味だからな(ドヤァ)」
 「趣味だもんね(;´Д`)」
 という極限の不毛トークにしかならねーのは嫌と言うのはどうなってんの。捻れ過ぎだろ。
 まぁぶっちゃけ普通に楽しい人生のが良いと思うしね。人生イージーモードで幸せに生きてる奴はそのままで居て欲しいと思うし。妬ましいけどそれはそれで良いことじゃん?クソゲーはイージーとかハードとかを超越してるからね。異次元に踏み込もうとしてる変態が居たらとりあえず制止するのが変態紳士の務めと言うか、人情ってもんだと思うよ。俺は、これで楽しいけど、他にもっと楽しいものがあることを知っているから。「他にベターアンサー選択出来るのになんで不正解選択して来るんだこのバカ」というのが正直な気持ち。


 まあそんな事はさておき、一応片隅に欠片が残ってたんで、嬉しくてちょっと泣いた。下らないことだけど、「相互理解など幻想」って大前提は俺の価値観の支柱のひとつだから、その杭をぶち込んでやれただけでも救われるよ。なんてね。ま、ここは見つかってないだろうからマジでチラ裏なんだけど、こうやって俺の死骸があちこちに埋葬されていけば、俺自体が亡くなってもそれはどうでもいいことなんだよね。「本質は絶対に届かない」って改めて確信させられた訳でもあるけど、ネジティビティは流石に無理だったか…まぁ仕方ないな。ネジティビティこそ根幹の設計思想なのにこれの頒布は拒絶してる俺も相当捻れてると言うか、だから捻ティブなんだけど。


 「で、禁則事項の件はマジで忘れちゃったの?」ってセカンド自分に突っ込まれたので反省しておく。そうねこの話は御法度だったね。いつまでも繋がれっぱなしじゃ前に進めないもんな。でも趣味なんだよこれ。