n周目。

 さて、同じ景色にしか見えない訳だが。変われたのかね?あるいは、変われずにいられたのかね?
 何事に於いてもだが、物事には全て立場ってもんがあるんだから、自分と違う立場の人間と必ず敵対しなけりゃいけないって理屈はねーと思うんだ。殴れれば満足なのか、どっちか死ぬまで殴りあうのか。そこを自覚してから殴り合いを始めて欲しいな。俺?俺はここから眺めてるから思いっきりやってくれたまえ。
 人間は一人で人生を全う出来るほど上等な存在ではない訳だからね。自分ひとりで衣食住の確保が出来る訳でもねえのに一人で生きてる気になるなよ。他人あっての人生だ。排撃する前にちゃんと損得考えろよバーカ。と、自分を矮小化させる代わりに他人の大切さの比重を高める訓練は現代人に必要なんじゃないかな。
 見るべきところのない他人なんてのは、俺は今まで会った事は無いな。何かしら取り柄ってのはあるもんだよ。んでもって、画一化された正解なんてねーわけでな。みんな長所と短所がある訳で、ケースバイケースでしかねえよな。淘汰は結果でしかない訳で、まぁそうなりゃ受け入れるけれど、断絶されるまでは足掻いてもいいんじゃねえのかな。角を矯めて牛殺すって言うけどさ、お前の正解が唯一真なる答えだなんて努々考える事じゃねえっつーの、弁えたアドバイス寄越せよ。鳥が猿に空の飛び方教えるようなアドバイスして悦に入っちゃいけませんよ。「こうやって羽ばたいて空を飛ぶンだよ、簡単でしょ?」って猿に翼はねえええええよ!!
 まぁそんな訳で俗にいう「出来る人間」ってあんま好きじゃないんだよね。「出来ない人間」の気持ちを理解できない人が多いから。技術屋と学者の違いみたいなもんなのかな。出来ない人間のレベルに落し込むのが学問だからそういうもんなのかも知れない。感覚的な認識を誰にでもわかるものに分解するのって、自分のレベルを落すリスクもあるけれど、精度を高めるのには大切だったりするよな?
 あと評価を求めるのもどうなのかなぁと。これだけやったからこれだけ評価して下さいって自分のレートを提示するのはアリだけど、そのレート通りの取引が出来なかったら他人を腐すんじゃなくて自分のレートを見直すのも大事っスよ。少なくともレートを下げて満足する事で損失は防げるんだから。どうしても納得できねーならレートが合うところで取引やってくれよ。なんで居直り強盗みたいに居座ってんだ。それって無駄な労力じゃねえの?


 あー。なんだか結構ブーメランになってるな。反省しよう。


 あと全然関係ないけれど、個人的に俺の戦略は手数でミームを残す方なんで、全部は残らなくてもいいんじゃないかなぁと思ってる。強い個性に一発でも楔を打ち込めればそこに潜伏して残っていく訳だからね。たとえば太古の緑藻が葉緑体なんていちパーツに成り下がったのが敗北か勝利かって話だよね。ミトコンドリアでもいいけど。そのまま完全な姿で生き延びれる事だけが成功なのかなぁ?そうじゃねーんじゃないかなと、最近思う。
 そんな風に沢山の場所に複製子を突き刺して、いつかどこかで全部揃って復活してくれればそれでいいさ。その時には更に洗練されていればなおいいけれどね。
 ん、まあ全部無駄なんだけどね。その無駄の積み重ねの先にある至高の無駄を目指してダラダラ逝きますか。