さてと。

 まだ時間はありそうだけれど。そうだなぁ、郭公の托卵ってあるじゃないですか。俺は子供の頃、その図鑑を見て郭公にかなりムカついたのだけれども、オオヨシキリからしてみたら、それが誰の子供であるかはどうでもいい話だったんじゃないかなぁと、そんな事を思った。それを育てることが大事なんであって、それが何かということはどうでもいいんだろうね。そこに何かしらの感慨を抱くのは、岡目で読んでる話でしかない。
 と、言うのが俺が中立として立つ時の足場になっている。部外者であること、足場や寄る辺を渦中に置かないこと。そこに居ても根付かないこと。大きく広く、浅く見て回り、色々な視点をこねくり回す。解を求めずに、解法を問う。多くの手法に通じ、手法の応用を延々と試行し続ける。うん、そうだね。ぼくにはないよ。なんにもないよ。そうあるように生きてきたし、この先も変えるべきじゃない事だからね。なにものでもないままいつか死ぬだろうけれど、その日を待つのが今の楽しみなんだ。
 つまりまあ。寄る辺も無く、足場も無く、仲間も居らず、敵も作らず、淡々と、ひたすらに延々と何も無い地平を目指す日々に必要なのは、「地平線に向かう」ことではなく「地平線をならす」ことでしかない。


 地平線に向かえば凹凸は拡大され平坦な地平線など夢のまた夢であり、平坦な地平線が見たいのならば背を向けてひたすらに遠くへかけて行くしかないのではないのですかね。


 ときどき振返るけれど、まだまだ先は長そうだ。