こんばんはダラケスキーです。

 「完成したものはつまらない」と言ってプラモを積んだり放置していたらぶらり途中下車男になっちゃうのではないかと思いながら積み上げたプラモが押し入れに入りきらなくなる日はいつ来るのかと思っていたらそこが漫画倉庫になるとは流石の俺も予想していなかったよ。大切なものはいつか手に余るってこう言う事か…いやちげーよ。
 俺の心の中にいるプロシュート兄貴曰く

「積んどく」…そんな言葉は使う必要がねーんだ。
なぜなら、オレや、オレたちの仲間は、
その言葉を頭の中に思い浮かべた時には!
心の中でプラモを完成させちまって、もうすでに終わってるからだッ!
だから使った事がねェーッ。

カーネル、オマエもそうなるよなァ〜〜〜、オレたちの仲間なら…
わかるか?オレの言ってる事…え?

『もう満足した』なら、使ってもいいッ!

 おいそれじゃダメだろぉぉぉぉぉ!?「死ぬ前にMGのGMだけは作っておきたいな…」と思って買ったところ実際に死にかけるとか流石の超予測を発揮した俺もしっかり未完成で放置余裕でした。そのうち組むよ…そのうち。
 ねんどろご当地のために勢いでフリース生地買いましたが多分これも積んどくと思うから見てな!


 さて、そんな枕はどうでもいいんですが。今回も本題は無いのでダラダラと。


・Kさん会議での収穫
 なんで彼は医者にリスペクトが無いんだ。田舎の名士に対するなんかがあったのか?教えてくれ漱石…先生は俺に何も言ってはくれない…教えてくれ漱石
 ていうか自分の都合で学部変えちゃうその空気読んでない感じがたまらなく好きです。だからお前は死んじゃうんだよ!若い頃はショックから当てつけたのかなぁと思っていたけれど、先生へのガッカリが少しと、その他は自分への嫌悪だったのかなぁと思わなくもない。理想へ向かいたい自分が、理想へ辿り着けそうにない自分を受け入れられずに殺したというか。そこでよそ見出来ない青臭い真っ直ぐさは嫌いじゃないけど、頭固いなぁと思った。
 逆に先生は多少の柔軟性を持ち合わせつつ余計な事に引っかかる性癖が災いしてるナチュラルボーン真面目さんで苦笑せざるを得ないと言うか、根が真面目な奴って真っ直ぐな道を容易に外れるくせに性根はかわんねーよなっておいそれは俺だ。俺だよ。だからこそ先生が死んだ理由がいまいちわからないのが怖い。わかる日は来ないで欲しい。たぶんわかったら死ぬんじゃないかという不安がある。でも、彼が自覚してたであろう「もういいや」と言う気持ちは実は表層だって事までわかったから案外ここもまだ先の方に何かあるのかな?ん?じゃあわかんないと死ぬのか?
 その先に何があるのかを見てみたいのでもう少し廻っておこうと思う。まだ見落としてる事があるはずだ。


・こっそり例の件について
 彼らのほとんどがほぼ自称なのは認めよう。だが「タデ喰う虫も好きずき」と言い出したら何でもアリと言うかこれ言ったらダメなんだけどそっちにも選ぶ権利があるようにこっちにも選ぶ権利がある筈ではないだろうか。ノンケがホモに纏わりつかれたらノーサンキュー状態であるように、そこは需要と供給のギャップが埋まって初めて脱却出来るのではないかと。
 ぶっちゃけ彼らの理想はあまり高い訳ではない。それですら需給ギャップが埋まらないのはまあなんていうか笑うしか無いよね。ただし多くのケースは本人に問題があるというかショットガン撃てって言われて頑なにスラッグ弾に拘ってみたり「まっすぐ自分を曲げない」強固なナルトイズムに冒されてたりするよね、否定はしない。まあそれ自体が意識する事を意識している事を意識すると言うみっともない非モテスパイラルの深いところに降りた結果でもあり、気が付けば「もしかしてこいつらプリンセスハオ?」みたいな状況になってて苦笑いせざるを得ない部分はあるよ。オレモナー
 淘汰圧が下がっている感覚はある。というか、浅瀬に逃げるのが容易になったと言うか。多様化の弊害なのか。「負け犬が逆境を克服して新世界の覇者になる」という山田玲司的な進化論はある意味的を射ていると言うかスキマ産業の世界なのだが、その逆境はぬるま湯でしたという状況なのだろうかと不安を感じながら自分の持ってるミームの絵合わせをしている俺も大概だけど。そろそろ新しい血を入れないと進化の袋小路にハマる気がしないでもない。
 個人的には「ぼくのかんがえたさいきょうのミーム構成」とかもの凄い大好きなのでせっせとDNAレベルの書換してみたり染色体レベルでの組み合わせを考えたりしてるのだけど、この話をするとガチで嫌がられるのは何故ですか?個人的に現実世界に於ける最強の中立コミュニティを確立した資本主義の権化である日本でこの考えが否定されるなんて信じられないんですけど。思ってたよりGやE属性の人がおおくてHo-N-Thiの俺の立場が無いっす。
 「ながいじかんをかけてこうちくしたじぶん」はそんなに大事か。大事なのか。より良くなる為に過去の自分を否定するのがそんなに嫌か。愛着ならいいのか。あれ?いいな。いいや。ごめん、いいわ。
 「生物は遺伝子を運ぶ肉袋」という概念は決して生物の価値を毀損するものではありません。ってドーキンス博士が言ってた。そうですね、ただの事実ですよね。「太陽はヘリウムや水素で出来ています」と言ったから太陽の価値が毀損する訳ではないのと同じですよね。周囲の認識の境界線がいつまで経っても渋いのは不思議だなぁと思わなくはない。人格なんて唯一自分で遺伝子操作出来る玩具なんだからもっといじくり回して楽しめば良いのに。勿体ないよなあ。


 とまあそろそろ宝石の指輪が破損するので撤退します。