置き石
「人間が歴史を学んで分かることは人間は歴史から何も学ばないということだけだ」
ヘーゲルという昔の人が言った言葉。個人的には「学ばない」のではなく「学べない」のだと思うのだが。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言うしね。ただ、その根幹にあるのは「感受性の欠如」であって、賢愚の別はさして重要な事ではない。むしろ半端な感受性で他人を理解した気になる賢い人の方が、本質を理解出来ずにズレていくのだよ。
経験から学ぶ事自体は俺は否定する気はない。血肉を伴わない知識は知恵には変質しないから。擬似的な血肉を伴わせるのが「賢さ」なのだというのであれば、その純度を高める努力は必要だと思う。もっとも大半の人間はそのような賢さを持ち合わせては居ないので、経験によって核となるものを集める必要性があるだろうね。実際その方が手っ取り早い。
実質的な強者の側に立ち続ける人間が弱者の苦痛を経験する事はないわけで、その立場から想像する弱者の怨嗟や憤りが果たしてどれくらいのものなのか。想像しようとしても俺には想像出来ないんだけどね。俺は踏んづけられた時の気持ちを自分の経験として、はっきり持っている訳だから。それを物差しにして自分よりもキツい環境に居る人間の気持ちを想像するのが正しいかどうかは、先日のエントリの通り「どこまで近似したか」を推し量る事しか出来ないから断言はしないけれど。ルサンチマンから生まれる殺意は育ててあるから却って「そこまで憎んでは居ないよ」とか言われそうだけどな。
そこそこ濃い悪意を持ってるぶん、同化吸収や昇華に使えれば良いのにねえ。未だ振り回されるばかりで面目ない。
でも、「相手の気持ちを理解出来たか」は実はあまり問題じゃない。どうせ理解は出来ないのだから。大切なのはその感情の属性とベクトルの向きとおおよその大きさを把握すること。そしてその問題を解決する為に「原因」と「解決策」を探る事だったりする。賢い人が見誤るのはそこで、「理解した」前提で物事を進めるから、ちょっとしたズレがしばしば取り返しのつかない問題に発展したりする。自分の読みを信じているが故に、実際は重い筈の問題を軽く扱ってしまったりする。失敗しても頭を下げられる人ならそれでいいんだけどね。往々にして頭を下げないのはなんでなのかなあ。
などと言う事を、最近の政治を見ていて思った。俺が担ぎたい神輿は、俺らの苦しさがなんなのかを知っていて、それを解決したいと思ってくれる政治家なんだけど、今のところそんな奴は見当たらないなあ。あと2ヶ月くらいで選挙の筈なんだけど、割とどうするべきか悩む。